2014年5月30日金曜日

生活苦に陥る 「避難区域」を解除された被災者たち

 
 国は4月1日に福島県田村市都路地区を避難指示区域から外して、元居住者たちに帰還を促しました。
 しかしまだ空間線量が高すぎてとても居住は無理と思われます。
 では、帰還を拒否すればどうなるのでしょうか。1年後には月々の精神的賠償が打ち切られるので、多くの人たちは生活苦に陥ります。しかし行政からは「自主避難者」としてわれて、自己責任の問題として放置されます。
 
 現実に、緊急時避難準備区域の指定を11年9月に解除された川内村の20キロ圏外の避難住民は、12月分を最後に1人当たり月10万円の精神的損害賠償を打ち切られました85歳の住民はいま、以前の農業が出来なくなった上に月4万円(国民年金)の生活を強いられています。 
 
 安心して戻れるものであれば、そして以前の「社会的な生活環境」が得られるものであれば、誰しもが帰還します。しかしそうではありません。
 日本では年間積算線量20ミリシーベルト以下の地域を「居住適」として帰還を促し、もしも拒否すれば、その後の生活は自己責任とされてしまうのです。
 
 あのチェルノブイリ原発事故で、旧ソ連は年間積算線量1~5ミリシーベルトの区域を「移住権利ゾーン」と設定し、住民が移住を選択した場合、住民が失う家屋などの財産を補償ました。つまり年間5ミリシーベルト以上の区域は強制退去させたのですが、それでも30年近く経過した今日、ウクライナやベラルーシでは深刻な健康被害、平均寿命の極端な短命化が起きて問題になっています。 (チェルノブイリ地方はその後ソ連が崩壊したときに、ウクライナやベラルーシとして独立しました)
 
 年間積算線量20ミリシーベルト以下は「居住適」とする日本の政策がどんなに誤ったものであるかは言い尽くしようもありませんが、それを今度は兵糧攻めで強制しようとしているわけです。
 
 東京新聞の「こちら特報部」は27日、生活苦に陥る 避難区域を解除された被災者たち」を特集しましたが、次のように記事を結んでいます。 
 
 「漁民は水俣をつぶす気か」。水俣病の原因企業チッソの企業城下町だった水俣の多数派市民はかつて、同社に抗議する漁民をこう非難した。再稼働推進派は「事故の危険より、国力低下を憂えろ」と説き、福島の避難者は不安を漏らすことを許さない空気を感じている。半世紀前の水俣が繰り返されている
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
生活苦に陥る 「避難区域」を解除された被災者たち 
 東京新聞 こちら特報部 2014年5月27日
 福島原発事故の避難指示区域の解除に伴い、生活苦に陥る被災者らが増えている。月々の精神的賠償が解除後、1年で打ち切られ、なお避難生活を続ける人びとは自主避難者扱いにされるためだ。
 帰還するか、移住するかの判断を被災者に委ね、その選択を保障するのが東京電力や国の務めのはず。ところが、現実には帰還を押し付け、後は自己責任という「棄民化」政策が進んでいる。(上田千秋、榊原崇仁) 
 
◆原発事故の避難区域解除で被災者に生活苦 
 「単純に安全、安心でないから、皆、帰ろうと考えない。核燃料を抜き取っている4号機で何かあれば、真っ先に被害を受ける。事故の恐怖感は拭えない」 
 福島県川内村の住民約220人が暮らす同県郡山市の南1丁目仮設住宅。自治会長を務める志田篤さん(65)はそう話した。
  
 昨年12月、志田さんを驚かせる出来事があった。「皆の生活が苦しいことは分かっていたけど、はるかに想像を超えていた」 
 志田さんは昨年10月、高齢の避難者の支援を目的にNPO法人「昭和横丁」を設立。全国の市民団体などから米や衣服、トイレットペーパーなどの支援物資を集め、12月に郡山市内3カ所の仮設で配った。 
 「さすがに、誰かが一度使った古い布団や毛布は余るだろうと思っていた。ところが、そんなものまでわれ先にと持ち帰り、米や衣服もすぐになくなった」 
 
 なぜ、人びとは困窮しているのか。川内村は事故後、福島第一原発から20キロ圏内が警戒区域(2012年4月に避難指示解除準備区域と居住制限区域に再編)、20キロ圏外は緊急時避難準備区域とされ、大半の住民は村外に避難した。 
 緊急時避難準備区域の指定は11年9月に解除。この区域からの避難住民は12年8月分を最後に、1人当たり月10万円の精神的損害賠償を打ち切られた。その後は自主避難者扱いだ。 
 
 「こっちでは、お金がかかるようになった。ぎりぎりの生活が続いている」。一人暮らしの矢吹一郎さん(85)はそう語った。 
 村にいた時、住民の多くは自家消費分の米や野菜を栽培し、みそも手作りだった。井戸水を使っていたため、水道代もかからなかった。ところが、仮設では食料品はスーパーなどで買うしかない。それなのに賠償金を打ち切られ、矢吹さんの収入は現在、月4万円余りの国民年金だけだ。 
 若い世代は新しい仕事を見つけられても、高齢者はそうはいかない。矢吹さんは「好きこのんで避難を続けているのではない。戻れないから戻らないだけだ」と憤りを隠さない。 
 避難指示が解かれても、家屋は震災で壊れ、畑は動物に荒らされたまま。ほぼ手つかずの森林など、除染も十分ではない。それに加えて、住民が不安視するのは医療が不十分なことだ。村では事故前、近隣の双葉町や大熊町、富岡町などの病院を利用していた高齢者が多かった。いまは閉鎖された。村にも医療機関はあるが、規模が小さい。 
 この仮に住む女性(83)は「村に戻ればお金がかからないのは分かっているけど、病院までの距離が遠くなってしまう。ここなら近くにいくらでもあるので離れにくい」と話した。 
 
◆金銭支援惜しむ政府 公的保険減免や高速・医療費無料も風前 
 川内村の遠藤雄幸村長は12年1月、緊急時避難準備区域の住民を対象に「帰村宣言」を出した。4月からは、避難指示解除準備区域の解除も視野に村民の長期宿泊を認めている。 
 しかし、村民は帰村に消極的だ。村の人口は4月1日現在、2739人。避難指示が解かれた村西部は2412人で、全体の9割近くを占める。村は帰村者を「週4日以上を村内で暮らす住民」と定義しており、その数は1396人に上る。ただ、文字通り、自宅に戻って生活する「完全帰村者」に限ると639人で、村の人口の23%にとどまる。
 
 川内村は本年度、帰村を促す対策を次々に実施する予定だ。帰還住民らに、村の商店などで使える地域振興券を1人当たり10万円分出すほか、住宅の新築は400万円、アパート建設は3000万円まで補助する。 
 一方、自主避難者扱いとなった住民に対する支援はない。「『村の生活環境を整えているから早く戻ってきて』が村のスタンス」(村総務課)という。 
 
 こうした事態は川内村だけではない。同様に緊急時避難準備区域だった広野町全域、南相馬市と田村市、楢葉町の一部もそうで、やはり11年9月で避難指示は解かれた。かつての警戒区域や計画的避難区域では避難指示が続くが、4月には田村市都路地区で指示が解除され、楢葉町も今週中に解除時期を示す。 
 ただ、被災者は追い込まれている。解除の1年後には月額10万円の精神的損害賠償が打ち切られるほか、仮設住宅は解除の有無にかかわらず、使用期限は来年3月まで。根本匠復興相は16日の記者会見で「延長は自治体の判断次第」と発言。自治体側が避難指示を解いた後、「延長不要」とすれば、避難を続ける住民は路頭に迷いかねない。 
 首都圏の被災者を支援する「東京災害支援ネット」代表の森川清弁護士は「住居を自分で借りると、東京なら1世帯で10万円前後必要になる。仕事も簡単に見つからない中、ただでさえ家計が逼迫(ひっぱく)しているケースが少なくなく、非常に重い負担になる」と語る。 
 
 そもそも政府は金銭的支援を惜しんでいる。 
 新旧の避難指示区域では現在、介護保険や国民健康保険、後期高齢者医療制度の保険料などが減免されているが、長くても来年2月末までと期間が区切られている。これらの区域の住民以外でも、今は離散家庭の高速道路無料化や、18歳以下の医療費無料化などが実施されているが、いつまで続くかは不透明だ。 
 福島県からの避難者による「ひなん生活をまもる会」の代表で、いわき市から東京に避難している鴨下祐也さん(45)は「家族ばらばらで避難する例が目立つ現状で、高速の無料化が終わったら、家族の絆が断ち切られてしまう」と語る。 
 
 ちなみにチェルノブイリ原発事故で、旧ソ連は年間積算線量1~5ミリシーベルトの区域を「移住権利ゾーン」と設定し、住民が移住を選択した場合、住民が失う家屋などの財産を補償した。日本では20ミリシーベルト以下の地域で帰還を促し、もしも拒否すれば、その後の生活は自己責任とされてしまう。 
 
 前出の志田さんは「原発事故の被害者は全員、賠償をもらい続けていると思われがちだが、とんでもない誤解だ」と強調する。 
 「東電は国が救済しているのに、避難している高齢者たちは誰からも守られていない。頼れる親戚や子どもがいない人たちもいる。国は帰還を前提とした政策をとらないでほしい」 
◇ 
 「昭和横丁」は支援物資や支援金を募集している。問い合わせは電080(1387)2302へ。 
 
<デスクメモ>
 「漁民は水俣をつぶす気か」。水俣病の原因企業チッソの企業城下町だった水俣の多数派市民はかつて、同社に抗議する漁民をこう非難した。再稼働推進派は「事故の危険より、国力低下を憂えろ」と説き、福島の避難者は不安を漏らすことを許さない空気を感じている。半世紀前の水俣が繰り返されている。(牧)