東京支社を設立した大分合同新聞が、放射能廃棄物を収納した黒いフレコンバッグがあちこちの田畑に積み上げられている福島の現状をレポートしました。
大分県は、豊後水道(海峡)を介して四国電力伊方原発から最短45キロの距離にあります。
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廃棄物の袋並ぶ田畑 ルポ・福島はいま 東日本大震災5年
大分合同新聞 2016年2月2日
東日本大震災は11日で発生から5年になる。福島県では東京電力福島第1原発事故が重なり、今も約10万人が避難生活を余儀なくされるなど「当たり前の暮らしを奪われている」(内堀雅雄知事)。古里を突然追われた住民は家族やコミュニティーの分断を経験し、被ばくの不安を抱えながら将来帰還するかどうかの選択を迫られるなど、苦悩の中にいる。影響が原発30キロ圏外にも及んでいる重い現実は、再稼働の動きが進む四国電力伊方原発(愛媛県)が対岸にある大分県にとって人ごとではない。
2月中旬。のどかな農村地帯を車で走ると、あちこちの田畑に黒いフレコンバッグが並んでいた。除染作業で出た土などの汚染廃棄物を保管する大型の袋だ。
福島県飯舘(いいたて)村。福島第1原発の北西30~50キロ弱に位置し、2011年3月の事故前は約1700世帯・6100人が暮らしていた。だが、村は事故時に風下になり、放射性物質を含む雲状のプルームが飛来して放射線量が急上昇。翌4月に村全域が計画的避難区域に指定され、全村避難が続く。
避難区域は12年7月、年間の積算線量に応じて(1)帰還困難区域(2)居住制限区域(3)避難指示解除準備区域―に再編された。(2)と(3)は一時帰宅などが可能だが、(1)は高線量のため立ち入りができない。
帰還困難区域の長泥地区へ続く道にはバリケードが設置され、「通行止め」の看板が立っていた。持参した測定器で付近の空間放射線量を測ると、毎時2・54マイクロシーベルト。一般の人の年間追加線量は国の基準で1ミリシーベルト(毎時0・23マイクロシーベルトに相当)が上限だが、その11倍の値を示した。
「あの時季、風はほとんど内陸から海へと吹くはずだったのに、偶然こちらに吹いた。そこに雪が降り、放射性物質が落ちてきた」
菅野典雄村長(69)は、そう振り返る。
国は福島事故の後、各地の原発から30キロ圏内を事故対策の重点区域に設定した。伊方原発から最短45キロにある大分県は対象外だが、菅野村長は「一律同心円の線引きは、被害の有無には関係ない」と明言する。
村は帰還困難区域を除くエリアでの来年春の避難指示解除をにらみ、福島市飯野町に移している役場機能を7月、村に戻す。村内では現在、公民館や太陽光発電施設などの建設も進む。村外に移転している幼稚園や小中学校は、来年4月に村内で再開させる方針だ。
「帰還に向けた一丁目一番地は除染」と菅野村長。帰還困難区域を除く宅地の除染はほぼ終了、田畑は16年度に終える見込み。ただ、村面積の75%を占める森林の除染は困難。多くの民家は裏手に屋敷林があり、「自宅の裏は線量が高くなる」(地元住民)という。
この先、村民は帰るのか。
村民アンケートでは、すぐに帰還を希望するのは十数%にとどまる。高齢者に「愛着のある土地に戻りたい」と帰村志向がある一方、子育て世代からは「戻れない」「学校の再開は早すぎる」と反発も。村議の一人は「安心できる放射線量ではない。セシウム137(放射性物質)の半減期は30年。なぜ行政は帰還を急ぐのか」と訴える。
菅野村長は言う。
「放射線、帰還などに対する考え方は百人百様。事故は、いろんな意味で『分断の連続』を生んでいる」
田園風景は福島第1原発事故後、様変わり。今は村内のあちこちに除染で出た土などを
入れたフレコンバッグが積まれている=2月17日、福島県飯舘村、撮影・藤内教史