九州の水俣地方を中心に膨大な水俣病患者が発生した悲劇は、患者の発生が注目されてから比較的早期の段階で、九州大学によってアセトアルデヒドの合成過程で副生する有機水銀に起因していること明らかにされたにもかかわらず、プラスチック可塑剤であるアセトアルデヒドの製造を止めたくなかった政府が、その事実を隠ぺいしたために、多くの人たちが新日本窒素の排水に汚染された魚を摂取し続け、結果として水俣病患者が爆発的に発生しました。まさに国が行った犯罪であり、国策によって生まれた悲劇でした。
原発事故の悲劇も、国が異常に手厚く保護しあらゆる手を尽くして普及させてきた原発が引き起こした取り返しのつかない大事故であり国策が生んだ悲劇でした。
福島原発事故で新潟県に避難中の人と、新潟水俣病の被害者が体験を語る「協同のつどい」が12日、新潟県立環境と人間のふれあい館で開かれました。どちらも国策によって引き起こされた悲劇という共通点があり、避難者や被害者が悩みや病気のつらさを分かち合いました。
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「悩み」や「つらさ」を分かち合う
原発事故避難者と新潟水俣病被害者が「協同のつどい」
新潟日報 2018年5月13日
東京電力福島第1原発事故で本県に避難中の人と、新潟水俣病の被害者が体験を語る「協同のつどい」が12日、新潟市北区前新田の県立環境と人間のふれあい館で開かれた。どちらも国策によって引き起こされた共通点があるとして、避難者や被害者が悩みや病気のつらさを分かち合った。
当事者らでつくる実行委員会が原発事故と水俣病の実態を伝えようと企画し、2回目。50人が参加した。
福島県郡山市から新潟市に避難する高橋真由美さん(46)は、自宅が避難指示区域外だが子どもの健康に放射線がもたらす影響に不安を感じて避難した。「自宅には除染した後の廃棄物が置かれたまま。前の暮らしに戻りたくても戻れない」と悔しさをにじませた。
阿賀野川の魚を知人からもらって食べていたという新潟水俣病第5次訴訟原告の70代女性は「自分が水俣病になるとは考えていなかった。(差別を恐れ)病気のことは家族にも言えない」と声を詰まらせた。
講演した立教大の関礼子教授は「声を上げて被害を記録に残していくことが大切」と強調した。