2018年7月7日土曜日

大飯原発訴訟控訴審 司法の判断は間違っている

 大飯原発3、4号機についての2審名古屋高等裁判所金沢支部の判決について、東京新聞が手厳しい批判をしています。
 
 4日の判決が「原発そのものを廃止・禁止することは大いに可能であろうが、その当否を巡る判断はもはや司法の役割を超え、政治的な判断に委ねられるべきだ」と述べたのは、「運転差し止めの判断司法で行うことは出来ない」と差し止めの判断を放棄したものであり、「内在的な危険があるからといって、それ自体で人格権を侵害するということはできない」と述べたのは、「危険が内在的していてもそれを理由に運転差し止めをする権利はない」「少しくらいの危険はあっても国民は我慢せよ」というに等しいものです。
 1審の福井地裁樋口英明裁判長が、明快に「具体的危険性が万が一でもあれば、差し止めが認められるのは当然だ」と言い切ったのに比べるとあまりにも退嬰的で、最高裁事務総局の意向に沿おうとするあまり、全ての論理をそれに向けて捻じ曲げています。
 
 審理のなかで、地震学者の島崎邦彦東大名誉教授「基準地震動は過小評価の可能性があり、大変な欠陥がある」と強調した点についても、判決は、「高度な専門知識と高い独立性を持った原子力規制委員会」が、関電側がまとめたデータに基づいて下した判定」だから正しいものだとして、そのまま受け入れています。
 島崎氏が抜けて「地震の専門家が居なくなった」規制委を「高度な専門知識を持っている云々」というのは勿論誤りですし、原子力ムラのメンバーで構成された規制委のことを「高い独立性」というのにも大いに疑問を感じます。
 何よりも「規制基準に合格したからと言って安全だという意味ではない」と繰り返し述べていたのが当時の田中委員長ということを、知らなかったのでしょうか。
 これらの「高度な専門知識と高い独立性を持った」という誤った形容詞句を捨象すれば、単に「規制委が関電側がまとめたデータに基づいて下した判定」をそのまま受け入れた判決ということになります。 
 規制委と関電の主張を丸のみにすることで、事務総局の意向に沿った判決を下したという訳です。
 
 北海道新聞と南日本新聞の社説も併せて紹介します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【社説】大飯原発控訴審 司法は判断を放棄した
東京新聞 2018年7月5日
 住民の「人格権」を尊重し、関西電力大飯原発3、4号機の運転差し止めを認めた一審の判断は、いともあっさり覆された。「原発の是非は政治に委ねる」という裁判所。一体誰のためにある? 
「福島原発事故の深刻な被害の現状に照らし、原発そのものを廃止・禁止することは大いに可能であろうが、その当否を巡る判断はもはや司法の役割を超え、政治的な判断に委ねられるべきだ」と名古屋高裁金沢支部。結局は判断の放棄であろう。
 福島の悲惨な現状を認めた上で、判断を放棄するのであれば、「司法の役割」とは何なのか。
 
 二〇一四年の福井地裁判決は、憲法一三条の幸福追求権などに基づく人格権を重んじて「具体的危険性が万が一でもあれば、差し止めが認められるのは当然だ」と言いきった。
 福島原発事故のあと、初めて原発の運転差し止めを認めた画期的な判断だった。
 高裁はこれを「内在的な危険があるからといって、それ自体で人格権を侵害するということはできない」と一蹴した
 内在する危険に対して予防を求める権利は認められないということか。あまりにも不可解だ。
 控訴審では、耐震設計の目安となる揺れの強さ(基準地震動)の妥当性、すなわち、原発がどれほどの揺れに耐えられるかが、最大の争点とされていた。
 元原子力規制委員長代理で地震学者の島崎邦彦東大名誉教授は法廷で「基準地震動は過小評価の可能性があり、大変な欠陥がある」と証言した。
 それでも高裁は「高度な専門知識と高い独立性を持った原子力規制委員会」が、関電側がまとめたデータに基づいて下した判定をそのまま受け入れた。そして「危険性は社会通念上無視しうる程度にまで管理・統制されているといえるから、運転を差し止める理由はない」と断じている。
 ここでも規制委と関電の主張を丸のみにした判断の放棄である。
 それにしても、今や原発の危険性を測る“ものさし”になってしまった「社会通念」。その正体は何なのか。
 避難計画の不備や核のごみ問題などどこ吹く風と、政府は再稼働に前のめり。司法が自らの責任を棚に上げ、政治に委ねるというのなら、もはや「追従」と言うしかない。
 「内在する危険」に対する国民の不安は一層、強まった。
 
 
【社説】大飯控訴審判決 住民の不安、直視したか
北海道新聞 2018年7月5日
 大地震がきっかけとなって起きた福島第1原発事故の教訓を軽視していないだろうか。
 関西電力大飯原発3、4号機(福井県)の運転差し止めを周辺住民らが求めた訴訟の控訴審で、名古屋高裁金沢支部はきのう、差し止めを認めた一審判決を取り消し、住民側の請求を棄却した。
 一審の福井地裁は4年前、大飯原発の地震対策に構造的欠陥があると指摘し、運転差し止めを命じた。関電側が控訴したため、この判決は確定せず、3、4号機は今春相次いで再稼働した。
 今回の高裁判決は、再稼働の根拠となった原子力規制委員会の新規制基準について「不合理な点は認められない」とし、安全対策の欠陥も否定した。
 具体的な危険性が万が一でもあるかを検証すべきだとした一審判決とはあまりに対照的だ。
 高裁は規制委の判断を追認するだけで、住民の不安に向き合ったとは言い難い。
 控訴審では、関電が大飯原発の耐震設計の目安として算定した揺れ(基準地震動)の妥当性が最大の争点となった。
 住民側証人として出廷した元規制委員で地震学者の島崎邦彦東大名誉教授は、算定に用いた計算式を検証し、基準地震動が過小評価された可能性を指摘した。
 関電側は「震源となる活断層の面積を詳細な調査で適切に把握した上で、より大きな面積を設定して算定した」と反論。判決はこの主張を採用し「過小だとは言えない」と結論づけた。
 島崎氏は規制委員時代に大飯3、4号機の地震対策の審査を担当した専門家である。2016年の熊本地震のデータも参考にした指摘は傾聴に値する。
 最新の科学的知見を取り入れ、安全基準を不断に補強していくことが、福島第1原発事故の教訓だったはずだ。
 これを正面から取り上げずに「(大飯原発の)2基の危険性は社会通念上無視し得る程度に管理・統制されている」とまで言い切ったのは大いに疑問である。
 福島の事故から7年が過ぎても、なお約5万人が避難生活を強いられている。またこの間にも熊本地震や大阪府北部地震など大きな地震が各地で発生した。
 原発に対する国民の不安が増す中、取り返しのつかない過酷事故を「想定外」で済ますことはもはや許されない。
 こうした厳格な姿勢こそ、司法に求められていたのではないか。
 
 
[大飯原発控訴審] 不安に誰が応えるのか
南日本新聞 2018年7月6日
 関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の周辺住民らが運転差し止めを求めた訴訟の控訴審判決で、名古屋高裁金沢支部は、差し止めを認めた一審福井地裁判決を取り消した。
 原子力規制委員会の新規制基準に適合した2基について「危険性は社会通念上無視し得る程度にまで管理・統制されている」とし、安全性が確保されたと判断した
 東京電力福島第1原発事故後の住民の不安を受け「具体的危険性が万が一でもあれば、運転差し止めは当然」とした一審判決とは正反対の判断である。
 新規制基準が原発の安全性を必ずしも担保しないことは、九州電力川内原発再稼働の際に当時の規制委員長が言及している。
 この基準に適合したから「社会通念上無視し得る」とは、原発の危険性を軽く見過ぎていないか。住民の不安に寄り添う姿勢に欠ける判決と言わざるを得ない。
 判決理由で内藤正之裁判長は、新規制基準について「最新の科学的、専門技術的知見を反映して制定された」と評価した。
 だが、福島の原発事故では「想定外」の規模の津波によって、計り知れない被害がもたらされたことを忘れてはならない。
 「最新の科学」や「専門技術的知見」が、いつ、どこで、どれくらいの規模で起きるか想定できない災害に本当に対処できるのか。不安は拭えない。
 一審判決は耐震設計の目安となる基準地震動について、「地震によって事故が起きる危険性についてあまりに楽観的」と関電を厳しく批判した。だが、高裁は関電側の主張を全面的に採用した形になった。今年3~5月に2基が再稼働し、既に営業運転に入っていることにも配慮したように見える。
 福島の事故後に起こされた原発の運転を巡る訴訟や仮処分申し立てで司法判断が揺れる中、今回は初の高裁判決で注目された。
 それなのに、福島原発事故の被害に照らせば「わが国の取るべき道として原子力発電そのものを廃止することは可能だろう」としながらも「その判断は司法の役割を超えており、政治的な判断に委ねられるべきだ」と判断を放棄したかのように述べたのは残念だ。
 脱原発を求める世論が高まる中、原発の再稼働について、政府は「規制委で安全性が認められた」とし、規制委は「基準の適合性を審査した」とするのみで、誰も主体的に責任を持とうとしない。
 それならば「司法判断を」と、住民からの訴訟や仮処分申し立てが今後も続く可能性がある。原発に対する司法の姿勢が問われる。