2004年の浜岡町と旧御前崎町の合併で誕生した御前崎市の(初代)市長に就任し、3期12年間を務め今年4月に退任した石原茂雄さんに、中日新聞がインタビューしました。
多くの先人が言うように、原発は「お金がなる木」だった、周りから財政豊かで市政運営が楽だとうらやましがられた、しかし甘えの体質も生まれ予算の無駄遣いなどが目立ち、新たなアイデアを生み出すことも少なくなったことなどが率直に語られています。
何よりも浜岡原発の立地市でありながら、福島原発事故が起きるまでは浜岡原発の危険性に全く無頓着であったという点に驚かされます。
原発問題については、行政は常に受け身で、新エネルギーや企業誘致などに努力したが、原発の安全神話が崩れてからは市のイメージが最悪になった。安全性のチェック体制を整え、中電のミスなどをもっと指摘するべきだった、百パーセントの安全はなく中電の対応を評価しない人も多い、原発に頼らない徹底した行政改革も必要だった、などという退任後の率直な思いも述べられています。
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浜岡原発停止5年 トップの思い
中日新聞 2016年5月10日
◆御前崎前市長 石原茂雄さん
中部電力浜岡原発(御前崎市)の全炉の運転が、政府の要請で停止してから十四日で五年。全国の原発停止の発端となったものの、その後の国内の原発を巡る動きは迷走している。浜岡原発に携わってきた地元行政の現・元リーダーはどう見ているのか、課題や展望などについて聞いた。
◆行政は受け身だった
-浜岡原発停止から五年間を振り返って。
東日本大震災後の二〇一一年五月五日朝、中電から海江田万里経済産業相(当時)が原発を視察すると突然の連絡が入った。視察に立ち会ったが、安全対策に問題ないと判断した印象を受けた。ところが翌六日夜、総理官邸から、菅直人首相(当時)が浜岡の停止について発表する、との電話を受けた。あまりに唐突で、なぜ浜岡だけが危険なのかと思った。国策として応援してきたのに、浜岡だけを止めるのは納得できなかった。かなり興奮し、関係機関に暴言を吐いた。東京のために一番近くの浜岡を止めるのかと疑った。
冷静に考えると震災以降、原発の安全神話は完全に崩れた。国は、国民の生命や財産を守ろうと判断し、浜岡を止めたと思う。そのおかげで浜岡の安全対策が進んだ。首相の判断は重要だったと感じている。
-市長として、どう原発と向き合ってきたか。
この五年間、原発問題の取り組みには進展がなかったと言わざるを得ない。中電は対策を進めたが、行政は常に受け身だった。将来を考えて新エネルギーや企業誘致などに努力したが、原発の安全神話が崩れて市のイメージが最悪になった。何をするにしても難しく、中電に対して本社を浜岡に移転しろと文句を言ったこともある。
-原発施策でやり残したことは。
安全性のチェック体制を整え、中電のミスなどをもっと指摘するべきだった。原発に頼らない徹底した行政改革も必要だった。原発交付金で造った公共施設の維持についても見直していく必要がある。中電の安全対策に対しては評価するが、百パーセントの安全はなく、評価しない人も多いと思う。
-原発の存在とは。
多くの先人が言うように、原発は「お金がなる木」だった。市長就任時、周りから財政豊かで市政運営が楽だとうらやましがられた。確かに原発のおかげで恵まれていた。今となっては、その甘え体質をなくさないといけない。予算の無駄遣いなどが目立ち、新たなアイデアを生み出すことも少ない。旧浜岡町時代からの悪癖として続いている。自分も甘えていたかもしれないと反省している。
-再稼働の判断は。これからも原発は必要か。
再稼働は、活断層の調査や安全対策を確認し、まず原子力規制委員会が判断する。その後は、県や国が納得できる説明責任を果たす義務がある。最終決定は市民に託されるが、住民投票で白黒付けることなく、じっくりと話し合うことが大切だと考えている。原発はずっと存在する。新市長は再稼働推進の立場だが、課題は山積しており、厳しい判断が迫られる。(聞き手・夏目貴史)
いしはら・しげお 旧浜岡町議を経て、2004年の同町と旧御前崎町の合併で誕生した御前崎市の初代市長に就任。3期12年間の任期を務め、今年4月に退任した。69歳。