2018年9月30日日曜日

大分地裁 伊方稼働容認 司法による「安全神話」を危惧

 大分地裁の伊方原発再稼働決定を巡る、29日付の二つの社説を紹介します。
 愛媛新聞と東京新聞が社説で取り上げたのは、「社会通念」というあいまいな“物差し”を持ち出して決定を下しているという点です。
 
 どの世論調査でも「(危険で利便性のない)原発は再稼働すべきではない」という意見が多数であり、「社会通念」と言うのであればそれをこそ取り上げるべきだと思うのですが、司法はそれをことさらに無視して、民意とは逆に少数派である国や電力会社に与するのは何故なのでしょうか。最高裁事務総局による事実上の強制があるから、ということ以外には考えられません。
 
 そもそも航空機とか自動車や電車のように、それがなくしてはもはや社会生活が成り立たないというほど明確な利便性を持つものについては、事故の確率が低ければ「社会通念上容認される」と言えますが、コスト面でも高くて利便性のない原発を、致命的な危険を冒してまで稼働させることが、社会通念上容認されるということはあり得ません。
 それを敢えて「曖昧に」「社会通念上容認される」として決定文で謳うのは、十分に論理を尽くすことができない・・・原発再稼働には無理がある・・・ことを証明するものです。
 
 また新基準が避難計画について定めていない点に関して、司法が原発には命や健康を侵害する具体的危険性がないから、計画の有無や内容を検討する必要はないと断じるに至っては、原発安全神話の本家を任じ出したのかと思わされます。
 
 東京新聞は、科学でもない、法律でもない、あいまいな“物差し”である「社会通念」が容認しているからというような論法が定着し、原発が次々と息を吹き返していくとするならば、「安全神話」の復活以上に危険であると警告しています
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社説 大分地裁伊方稼働容認 司法による「安全神話」危惧
愛媛新聞 2018年9月29日
 原発の安全神話が、国民の命と権利を守るとりでであるはずの司法によって、再び形作られることを強く危惧する。
 
 四国電力伊方原発3号機について、対岸の大分県の住民が運転差し止めを求めた仮処分申し立てに対し、大分地裁は差し止めを認めない決定を下した。広島高裁が、阿蘇山の噴火リスクを根拠に運転を禁じた同高裁抗告審の判断を覆し、再稼働を容認したばかり。再稼働を強引に推し進める国や電力会社の主張を、またも漫然と追認した。
 
 地震や火山への対策について大分地裁は、国の原子力規制委員会の新規制基準は合理的で、「合格」とした判断にも不合理な点がないと繰り返し、原発の運転による具体的な危険はないと指摘。そのため住民の命や暮らしを守る訴えには「理由がない」と一蹴した。しかし、伊方原発は南海トラフ巨大地震の震源域にある。長大な活断層・中央構造線断層帯がすぐ近くにあり、激震に見舞われる可能性が否定できない。住民の不安に向き合おうともしない冷淡な決定に、憤りを禁じ得ない。
 
 新規制基準を疑いもなく合理的と断じる姿勢は、極めて危うい。新基準は東京電力福島第1原発事故の原因究明の途上で制定されたもので、委員会自体がこれで安全とは言えないとしている。司法がお墨付きを与えて安全神話を生むことは、福島の事故以前に逆戻りすることにほかならず、看過できない。
 火山の破局的噴火についても規制委が示した考え方を追認し「社会通念上、無視できる危険性」と判断した。だが、現在の科学では予測できない以上、自然の脅威に謙虚に向き合い、最大限の安全を追求すべきだ。
 
 さらに納得できないのが避難計画に対する判断だ。新基準が避難計画について定めていない点を「不合理でない」とし、計画の有無や内容を検討するまでもなく、命や健康を侵害する具体的危険性がないと断じた。危険がないと決めつけ、避難計画の必要性にさえ目を背ける「命の軽視」は到底容認できない。
 実際、住民は万が一の際に、安心を得られないでいる。伊方町民は大分県に船で避難する計画だが、西日本豪雨によって、港に通じる道路の寸断や土砂崩れによる孤立は一層現実味を帯びている。津波などで船が出せない恐れも大きい。
 
 避難先の大分県は伊方原発から最短でわずか約45㌔。風向き次第で放射性物質が及ぶ可能性がある。にもかかわらず県は原発稼働の意思決定に関与できない。電気がもたらされることなく、リスクだけ負わされた「被害地元」の現実や、県境を越えた広範囲の命の危険を、司法も電力会社や国も直視すべきだ。
 近年、想定をはるかに超えた自然災害が頻発している。原発は安全と言い切れる根拠はどこにもない。四電は来月再稼働へ準備を進めるが、国も電力会社も、経済優先で突き進むことは許されない。
 
 
社説 大分・伊方決定 社会通念というリスク
東京新聞 2018年9月29日
 司法はまたしても「社会通念」という物差しを持ち出して、四国電力伊方原発(愛媛県)の運転差し止めを求める住民の訴えを退けた原発リスクにおける「社会通念」とは、いったい何なのか
 伊方原発は、四国の最西端、日本一細長い佐田岬半島の付け根にある。
 対岸は、豊後水道を挟んで九州・大分だ。最短で約四十五キロ。半島の三崎港から大分側の佐賀関港へは、フェリーを使えば七十分。古くから地理的に深く結び付いており、人や物の行き来も頻繁だ。
 
 伊方原発に重大な事故が起きたとき、原発の西側で暮らす約四千七百人の住民は、大分側に海路で逃げることになる。
 細長い半島には、ほかに逃げ場がないのである。
 伊方原発は「日本一再稼働させてはいけない原発」と言われてきた。
 わずか八キロ北を半島に寄り添うように、長大な「中央構造線断層帯」が九州へと延びており、南海トラフ巨大地震の震源域にある。
 さらに、伊方原発は阿蘇山から百三十キロの距離にある。
 原子力規制委員会の「火山ガイド」も指摘する、噴火による火砕流や火山灰の影響が心配される距離感だ。
 両岸の住民は、巨大地震と巨大噴火という原発事故の“二大要因”を共有する間柄、原発事故は「対岸の火事」ではないのである。
 
 大分地裁は、やはり四国電力側の主張を丸のみにするかのように「原発の耐震性評価は妥当」と判断し、「阿蘇山の破局的噴火が生じることが差し迫っているとは言えない。破局的噴火に相応の根拠がない場合、社会通念上無視できる危険である」とした。
 三日前の広島高裁と同様、またもや「社会通念」という、科学でもない、法律でもない、あいまいな“物差し”を持ち出して、大分地裁も、住民側が主張する具体的な不安を退けた。
 重ねて問う。「社会通念」とは、いったい何なのか
 地震や噴火のリスクは確かにそこにある。しかし、確率は低く、取るに足らないものであり、そのようなことに不安を覚える人たちが、非常識だということなのか。
 だから、備えを図る必要もないという判断なのか。
 このような「社会通念」が定着し、原発が次々と息を吹き返していくとするならば、「安全神話」の復活以上に危険である