福島原発事故直後に事故対応の最前線基地となった大熊町の県原子力災害対策センター(オフサイトセンター)は、事故後の放射線量の上昇などに伴い、実質4日間で移転を余儀なくされました。
20年に解体される予定の同センターを福島民友紙が訪ねました。
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原発事故 残る『緊迫感』 記者ルポ、大熊・オフサイトセンター
福島民友 2018年09月10日
東京電力福島第1原発事故直後、事故対応の最前線基地となった大熊町の県原子力災害対策センター(オフサイトセンター)が解体される。福島民友新聞社は今月、事故後の放射線量の上昇などに伴い、実質4日間で移転を余儀なくされた同センターを取材した。帰還困難区域の住宅街にひっそりとたたずむ外観とは裏腹に、館内には事故当時の資料が残り、7年半を迎えても緊迫感がよみがえる。
「懐中電灯を使ってください」。太陽が照り付ける午後0時30分。県担当者と入った館内は電気や水が止まり、日中とは思えないほど薄暗い。移転後にできたとみられる天井の崩落が数カ所確認されたが、大きな損傷はなく、頑丈な建物だということが分かる。
入り口の横には除染の場として活用された「シャワー室」があり、全面マスクや作業着が入った透明袋が山積みだった。保安検査官事務所がある1階の倉庫には透明袋に大量の空のペットボトル。当時の備蓄食料は少なく、対応に当たった約140人の食料は水とレトルトカレーが中心だった。
毎時1870マイクロシーベルトの屋外
「3月14日(月) 1F3 水素爆発直後(11:37) MP6付近 毎時50マイクロシーベルト程度」。政府が現地対策本部を設置した2階フロアには、3号機の水素爆発に関する情報がホワイトボードに残る。対策本部が設置されたのは2011(平成23)年3月11~15日。ホワイトボードは複数箇所に点在し、第1原発の様子や避難の状況が記され、放射線量の上昇など刻々と事態が悪化した状況を物語る。
大画面のテレビは通信エラーでテレビ会議システムとして使えなかった。大部分の電話も使えず、連絡手段は主に衛星携帯電話。県担当者は「限られた通信手段の中で、オフサイトセンターと政府との情報連絡がうまくいかなかった」と振り返る。第1原発から半径10キロ圏内を示す地図もあちこちにあるが、避難指示はさらに拡大し、当時の想定をはるかに上回った。撤退した3月15日の午前10時すぎ、館内の放射線量は毎時15マイクロシーベルト、屋外は毎時1870マイクロシーベルトに達していた。
記憶を後世に残す
同センターの屋上からは大熊町中心部を一望できる。同センターは20年に解体される予定で、周辺は特定復興再生拠点区域(復興拠点)となる。住宅は損壊し、道路もでこぼこのままだが、近くでは重機の機械音が響き、復興の歩みは着実に前に進みだしている。
取材終了後、同センターに職員研修で訪れた国の関係者と遭遇した。ホワイトボードなどの備品は双葉町に整備するアーカイブ施設(震災記録施設)に展示されるが、同センターに入らなければ伝わってこない事故当時の混乱や緊迫感もある。事故の教訓を忘れず、オフサイトセンターが二度と使用されるような原発事故を起こしてはならない、この誓いを胸に刻むため、解体前に同センターから学ぶべきことは多い。