「防災最前線」のシリーズで、産経新聞が千葉市稲毛区にある「放射線医学総合研究所(放医研)」の立崎英夫・被ばく医療センター長をインタビューしました。
立崎氏は
「多重防護ー何重にも防御線を張っても、それは崩れる前提で考える必要がある。『万が一』は本当に起こりうる。福島第1原発の事故を経、私たちはそれを知ってしまった」
と語ります。
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防災最前線
“万が一”は起きる - 被曝事故対応、
福島原発事故でも活動「放医研・REMAT」、“最後の砦”へ備え
産経新聞 2017年12月6日
「いつあるか分からない『万が一の事故』に備える、ミッション性を持った仕事」。千葉市稲毛区にある「放射線医学総合研究所(放医研)」の立崎英夫・被ばく医療センター長(58)は、職務をそう語る。
放医研は、昭和32年創立。「量子科学技術研究開発機構(量研)」の下部組織で、約700人が所属している。重粒子線を用いたがん治療をはじめとする研究機関として知られているが、被曝(ひばく)事故が発生した際の中心的な治療を担う医療機関でもある。
29年の第五福竜丸事故が誕生のきっかけとなった放医研は、茨城・東海村JCO臨界事故(11年)やチェルノブイリ原発事故(1986年)など、国内外の放射線事故に対応。「実力と経験から、線量評価と内部被曝の治療に関して、日本一と言っていい」と立崎センター長は断言する。
放医研が「病院」だとしたら、負傷者の元へ急行し初期医療やトリアージを行う「救急隊」にあたるのが、「REMAT(リーマット)(緊急被ばく医療支援チーム)」。
放医研と同様、量研に属し、157人のうち7割のメンバーが放医研と兼務。平成22年の発足当初は、海外派遣のためのチームだったが、翌年の東京電力福島第1原発事故で初めて国内で活動した。
REMAT隊員で放医研職員の宮後憲弘さん(55)は、「ここまで広範囲に放射線がばらまかれる被曝事故は考えていなかった」と振り返る。
宮後さんは、3月14日に福島県大熊町に入り、除染施設の立ち上げや負傷者の搬送などに携わった。治療は汚染されていない場所で行うのがセオリーだったが、線量が高い場所で行わざるをえないなど、前代未聞の状況下だったという。
「廃炉作業中に被曝した患者が、放医研にいつまた運ばれて来るか分かりません。廃炉が終わるまで、福島の事故は終わらないですね」
同じく大熊町に派遣され、3号機が爆発する煙を目にした立崎センター長は、原発の安全対策で採られている「多重防護」という言葉を挙げ、心構えを口にする。
「事故は起こさない、起きても大きくしない、大きくなっても治療できるという風に、何重にも防御線を張る。大事なのは、いくらそれが立派だとしても、崩れる前提で考えること」
「万が一」は本当に起こりうる-。福島第1原発の事故を経、私たちはそれを知ってしまった。そして、放医研やREMATは、“最後の砦(とりで)”となるべく、この瞬間も備えているのだ。」 (写真報道局 安元雄太)
「防災最前線」放医研・立崎英夫センター長インタビュー 3分47秒