2018年10月9日火曜日

フクシマ オフサイトセンター解体へ

 福島原発事故直後に事故対応の最前線基地となった大熊町の県原子力災害対策センター(オフサイトセンター)は、事故後の放射線量の上昇などに伴い、実質4日間で閉鎖を余儀なくされました。
 20年に解体される予定のオフサイトセンターには先に福島民友紙訪ねています。
 
 今度は河北新報紙が同センターを訪れ、「失敗の現場どう伝承  」というタイトルで報じ、閉鎖に至った理由を明らかにしています。
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<東日本大震災 風化にあらがう>
     失敗の現場どう伝承 原発事故対応拠点解体へ
  河北新報 2018年10月8日
 福島県の原発事故対応拠点だった大熊町の「オフサイトセンター」の解体が決まった。東京電力福島第1原発事故では放射線量上昇で職員が退去し、住民への情報発信など本来の機能を果たせなかった。「幻の最前線」が語る事故の教訓をどう伝え、生かしていくか。2020年の解体まで、対応が問われる。(福島総局・神田一道)
 
 「HPCI(高圧注水系) RCIC(原子炉隔離時冷却系)作動不能」「3u(3号機)爆発」ホワイトボードに書かれている言葉の一部
 
 今月3日のオフサイトセンター。2階の全体会議室は7年半前から、時間が止まったままだ。第1原発の暴走が記されたホワイトボード。机には缶詰やヘルメット、電話帳が散乱する。
 
<主導できず>
 センターは原発事故避難対応の「失敗の現場」だ。
 政府の事故調査・検証委員会の中間報告書は「初動段階で所与の役割を十分に果たすことができなかった」と指摘。国会の事故調査委員会(国会事故調)の報告書は「事故対応に何らの寄与もなし得なかった」と辛辣(しんらつ)に表現した。
 震災と原子力災害の同時発生は想定外だった。2011年3月11日の大地震後、停電したセンターは非常用発電機も故障。対策本部の実質的な設置は翌12日午前3時まで遅れた。電源が回復しても通信回線は途絶え、首相官邸とのテレビ会議はできなかった
 県の担当者は「事故前は対策本部が現地の実情を踏まえ、災害対応を主導する計画だったが、実際は政府の決定事項を事後的に知るだけだった」と語る。
 第1原発から5キロの立地も負に作用した。12日午前5時、避難指示区域が3キロから10キロに拡大し、センターは孤立。県や自衛隊、東電などの約140人は1日2食のレトルトカレーでしのぎながら対応した。
 
<直後のまま>
 撤退は15日午前11時。12日以降、原子炉建屋が相次ぎ水素爆発を起こした。室内の放射線量はぐんぐん上昇。撤退直前には毎時15マイクロシーベルトに達した高性能エアフィルターの設置を怠っていたためだ。
 対策本部機能は福島県庁に移り、センターを含む一帯は帰還困難区域に。復興の遅れで建物は放置され、結果的に事故直後の状況がそのまま残った。
 周辺は昨年11月、国が除染とインフラ整備を一体的に進める特定復興再生拠点区域(復興拠点)に認定された。県は「街づくりに支障が出る。地元からの求めもある」(原子力安全対策課)と解体を決めた。
 県は今後、事故の状況を伝えるホワイトボードや地図などの備品を「貴重な資料」として保存。隣接する双葉町に整備するアーカイブ拠点施設に所蔵する。
 解体後は「失敗の現場」が残した事実を風化させない取り組みが重要になる。
 大熊町商工会長で、国会事故調委員だった蜂須賀礼子さん(66)は「原発事故の教訓をしっかり伝えるためにも、アーカイブ拠点施設で展示してもらいたい」と語る。
 
[福島県大熊町のオフサイトセンター]
   東京電力福島第1(大熊町、双葉町)や第2原発(楢葉町、富岡町)の事故発生時の対応拠点。1999年の茨城県東海村臨界事故を受け、県が2002年に整備した。鉄筋2階で1階に両原発の保安検査官事務所やプレスルーム、除染室、2階に全体会議室などがあった。県は原発事故後、第1原発のセンターを南相馬市、第2原発のセンターを楢葉町に再整備した。